シンガポールに来て、新たに思った事があります。
「こちらに長く住んでいる日本人の日本語がキツク聞こえる」という事です。
あくまでも「私には」ですが...。
よく誤解が生じます。
よくよく意味を聞くと、「そんなつもりで言ってない」と言われます。
しかしそういう意味に取られてもしょうがないと思える単語使いをしているのです。
理由を考えました。
彼らは外国で生活し、英語を主体に暮らしています。
英語と日本語は、考え方や土台の構造が全く違います。
一番違うのは「ニュアンス」です。
日本語は単語のまわりに何か漂っているものがあるのです。
抽象的な言い方ですが、輪郭がぼやけていて、色々な意味を含みます。
英語の単語は、輪郭がはっきりとしていて、意味が明確です。
よく日本語から英語に訳す時に難しい単語の代表格として、
「せつない」
という単語が例に上がります。
はっきり言って、直訳出来る単語は英語にはありません。
近い単語に"painful"とか"heartending"などがあげられますが、
「せつない」を的確に表現している単語ではありません。
もちろん"sad"でも"sorrow"でもありません。
時折、通訳を依頼される事がありますが、一番難しいのは、
その単語を選んでいる人の気持ちの状態やフィーリングを訳す事です。
単語そのものを訳すのではなく、この「フィーリング」を伝える、
橋渡しをする能力が必要になるのです。
同じ意味合いの単語はないし、
また主語が明確で、自分の意志をはっきり伝える文章構造の英語と、
結論が最後に来て、曖昧な表現が多い日本語では、考え方がまるで逆なのです。
シンガポールに長く居る日本人は英語的発想で日本語を話しているので、
主語や意志の伝え方が明確です。
更に、もっと言えば、英語を母語としないシンガポーリアンと英語を話しているので、
まわりくどい言い方を避け、必要以上にはっきりと物を言います。
そうでないと意味が伝わらないからです。
これを習慣にしてしまうと「ニュアンス」なんて事は言ってられなくなるのです。
だから、キツクなるのです。
かつて私も日本に帰国した時に「あなたの話す日本語はキツイ」と言われました。
私も英語的発想で日本語を話していたのだと思います。
当時はショックで、正直、自分が何を言ったら、どういう風に言ったら
相手にキツイ印象を与えないのか、わかりませんでした。
極端な言い方ですが、日本では「自分が最も言いたい事を言うと嫌われる」とさえ、
思いました。
次第に「よろしければ」とか「差し支えなければ」とか「恐れ入りますが」という
言葉を覚えて、こういう単語を使えば、印象が少し柔かくなるようだと思い、
事あるごとに、これらの単語を頭に付けて、話していました。
随分丁寧ね、日本人以上に謙っていると言われる事もありました。
レストランの予約を取る時に「恐れ入りますが、予約をお願い出来ますか。」と
言っている私を見て「お客なのに、何でそんなに恐れ入ってるの?」と、
父に言われた事もありました。
試行錯誤を繰り返して、謙りすぎず、自分の意志もきちんと伝える、
日本語の言い回しがわかるようになって来ました。
プラス、この10年、日本語で歌詞作りをして、日本語の持つ曖昧さ、
微妙なニュアンス、言葉の持つ余韻を深く掘り下げ、
必要以上に日本語に敏感になってしまいました。
だから「はっきりとした日本語」がちょっと怖くなってしまったのだと思います。
逆に英語だと、はっきり言われても傷つく事はありません。
英語は英語のまま、そのまま受け止めています。
昨年、あるシンガポーリアンの女性プロデューサーと知り合いました。
彼女は日本語がペラペラで、その時居た全てのスタッフが日本人だったので、
その場では彼女は始終、日本語で話していました。
英語が話せるとわかっている私にでさえも、日本語を通しました。
その時に私は正直「彼女はちょっとキツイ人かなぁ〜?」という印象を持ちました。
彼女の日本語は、はっきりと明確だったからです。
オブラートに包むような表現が一切ない。
しかし、仕事ぶりが素晴らしく、非常に優秀な人と私は思いました。
こちらで活動を始める上で、私が真っ先に会いたいと思ったのが、彼女でした。
表現がキツかろうと何だろうと、仕事が優秀な人と繋がりを持ちたいと思ったからです。
アポを取り、再会した時、彼女はなぜか今度は、始終英語で私に話しました。
英語になると、今度は彼女は非常に優しい人で、キツクも何ともないと私は感じました。
「あなたはもしかして、英語的発想で日本語を話していますか?
日本語がキツイと言われた事はありますか?」と聞いたら、彼女は「ある」と答えました。
私は最初の印象を彼女に正直に話して、そして英語になるとまるで違う印象だと伝えました。
そしたら、彼女は「それは悪い事をした。私はシンガポーリアンだから。
簡潔明瞭に日本語を言ってしまうの。他意はないのよ。そのまま正直に言ってるだけ。」
続けて、「キツイ印象を与えて悪かったです。ごめんなさい。
そしてよくない印象を変えてくれる機会を私にくれてありがとう。」と言いました。
ああ、日本語だとか英語とかを超えて、彼女はとてもいい人だと私は思いました。
こちらの受け止め方が悪いという考え方もあるだろうに、
それにも関わらず、彼女はまず謝ってくれたからです。
3度目に会った時、その時も始終、私達は英語で話しました。
私は、はっきりと明確に英語で自分の意志を伝えました。
しかし、ある瞬間、言葉が止まってしまいました。
"I can't explain my mind... how to say...?"
その瞬間、彼女は「日本語で話していいよ。わかるから。」と日本語で私に言いました。
私は英語を話している最中、突如として、日本語のニュアンスのまま伝えたくなって
しまったのです。
しかし、それを表す明確な英語がわからず、言葉が止まってしまいました。
日本語で説明すると、
彼女は「なるほど。それは日本人的発想ね。シンガポーリアンにはない感覚だわ。」
と言いました。
この日以来、私と彼女は、英語と日本語をチャンポンで話すようになりました。
思っている事により近い単語、表現を選ぶようにしました。
飲み物をおごったら、彼女は"Thank you"ではなく「ごちそうさまでした!」と、
言うのです。
そのバランスがとても心地よく、私は彼女と居ると、とても楽です。
昔、アン・ルイスさんの曲で「I love you より愛してる」という歌がありました。
作詞は、三浦百恵さんです。
このタイトルに興味を持ち、このタイトルが伝えようとしている意味が想像でき、
当時私は、このタイトルに込められた意味を説明しているアンさんの本まで
買った事がありました。
内容は思った通り、日本人の母とアメリカ人の父を持つアン・ルイスさんは、
英語的発想を父から学びながらも、日本で育ったので、
「I love you」より「愛してる」の方が、より重く、深く感じるというのです。
確かに「愛してる」は重い。
"I love you"の方が、もう少し軽いというか、可愛らしい印象です。
しかし、アメリカ人は、"I love you"と割に簡単に言うイメージが
あるかもしれませんが、本当に愛している人に言う時は、
言い方が全く違うのも事実です。
私は、大学で英語学を専攻していたのですが、その際に教授が、
「"I love you" を、二葉亭四迷は「死んでもいい」と訳した」と言う話を
教えて下さいました。(ちなみに、二葉亭四迷のお墓はシンガポールにあります。)
その時に、その教授が妙に素敵に見えたのを覚えています(笑)
夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」程度でよいと言ったらしいですが...。
話の前後にも寄るし、その人の考え方にも寄るし、様々です。
話が横道に反れました。
日本人が9人、シンガポーリアンが1人、この10人で食事をするとします。
言語は「日本語」でいいと、私は思います。
もちろん、この1名のシンガポーリアンがどういう立場の人かにも寄りますが。
このような時、私はこの1名のシンガポーリアンの側に座るようにしています。
そして、みんなが話している事を出来る限り、英語に訳します。
優等生のように思われるかもしれないけれど、
ごく自然な気持ちでそうしたいと思っています。
なぜなら、言葉が理解出来ない疎外感、孤独感を私は知っているからです。
話を冒頭に戻すとすると。
今でこそ、英語と日本語を使い分ける事が出来るようになったけれど、
英語的発想で日本語を話していた自分も居た訳で、
英語を話さない日本人よりはそれを理解出来る訳で。
両者の架け橋、接着剤になろうと思っている気持ちが自分にあるのならば、
それを「キツイ」と単純に片付けてしまうのは、どうなのかと思うのです。
ミュージシャンになって、より敏感になった感受性を鈍感にする事は出来ないけれど、
しかし理解しようと努めたり、辛い時は「流す」あるいは「訴える」など、
もう一歩、上のコミュニケーションが出来る自分になりたい。
今年の年末、ある公式文化事業で、私は"Majulah Singapura"(シンガポール国歌)と
「君が代」の両方を歌う事を依頼されました。
"Majulah Singapura"はシンガポーリアンの気持ちで、「君が代」は日本人の気持ちで、
それぞれの立場を尊重して、全く違うアプローチで歌いたいと私は考えています。
普通、1つの公式事業では、1人の歌手が1つの国の国歌を歌うのが通例で、
両方を歌うという事はありえません。
「国歌斉唱」とは言うけれど、「両国国歌斉唱」と言われた時は、
腰が抜けそうになりました。
1人の人間が行うには、それがどんなに難しい事か...。
しかし、これは誰もが出来る事ではありません。
一つの私の"Mission"なのではないかと捉えて、がんばってみようと思っています。
話が長くなって、すみません。
これが最近、私の頭を一番占めている事柄でした。